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11日4日(土)に、JBF鳥学講座をアビスタホールにて開催しました。今回は「夢を運べ、北の島から日本の空へ −絶滅から復活への道を歩むシジュウカラガン」と題して、日本雁を保護する会会長の呉地正行さんにお話しいただきました。

シジュウカラガンは頬に白い斑があるガンの仲間で、カルガモより大きく、マガンより少し小さいサイズです。かつては大型のカナダガン(日本ではほとんどが外来種)と同種にされていましたが、これらのグループのうち小型の4亜種が、現在ではシジュウカラガンとして別種として扱われています。

日本では、江戸時代の禽譜にもシジュウカラガンが描かれており、宮城県で渡来数が多かったという記録があります。関東地方にも、東京湾に群れが渡来していた記録や、手賀沼でも生け捕りにした個体の写真が残されています。宮城県でも1935年ごろまでは数百羽の群れが渡来しており、マガンよりも多かったという記録も残っているくらいです。また、19世紀の終わりに千島列島を探検したスノウの著書にも、千島列島のうちキツネのいないエカルマ島、ウシシル島などでシジュウカラガンが繁殖していた記録が残されています。

しかし、1915年ごろから始まったアリューシャン列島や千島列島での毛皮目的のキツネの養殖事業によって、これまでシジュウカラガンの繁殖地だった島々にもキツネが放たれました。このころから越冬地に渡来するシジュウカラガンの個体数は減少の一途をたどり、1960年ごろまでには絶滅してしまったのではないかと考えられていました。これらはキツネによる捕食が原因と推定されています。

幸運なことに、絶滅の淵に立たされていたシジュウカラガンは再発見されました。1963年にアリューシャン列島のバルディール島で、200-300羽の群れがアメリカの調査チームによって見つかると、すぐに個体数回復のプロジェクトが立ち上げられ、人工繁殖が始まり、飼育下の個体数は増えていきました。

日本でもアメリカに続き、日本雁を保護する会による熱意ある取り組みにより、日本への越冬個体群を復活させる再導入プロジェクトが始まりました。1982年に八木山動物園に保護増殖施設が作られると、アメリカから譲り受けた個体を元に越冬地や中継地で放鳥が行われました。しかし、実際に北の繁殖地に渡る個体は少数で、この取り組みはなかなかうまくいきませんでした。

ソ連の崩壊をきっかけに、1992年に日・ロ・米の3カ国で協力してシジュウカラガンの復活を試みるプロジェクトが始動し、カムチャッカに繁殖施設が作られました。そして、カムチャッカからかつての繁殖地であるエカルマ島にシジュウカラガンの幼鳥を運び、放鳥する活動が、1995年から2010年まで継続して行われました。この取り組みによって、日本に群れが渡来するようになり、2013-14年の冬に初めて日本全体の渡来数が1000羽を超えました。2015-16年の冬には3000羽以上が日本で冬を越したようです。こうして、シジュウカラガンの個体数は絶滅の淵から脱したと言えるまでに復活しました。

今後は、かつての越冬地として記録されている福田町(仙台市)への群れの渡来の復活と、千島列島の繁殖地での調査活動を行うことを目標に活動していきたいとのことです。
呉地さんはこの長年の活動を書籍にまとめるご予定だそうで、これから鳥類の保護の活動をされる多くの方の参考になることと思います。とても楽しみです。

今回は、115名の方にご来場いただきました。お話しいただいた呉地さん、ご参加いただいたみなさま、ありがとうございました。